自分には、ある程度人と仲良くなると否定的コミュニケーションを取り始める悪癖がある。 これをやめたいとここ数年思っているんだけど、未だにやめられていない。
この本を読んだ理由も同様の課題感によるものだったけど、結局身になってない。 実は去年もこのテーマでエントリーを書いていたけど、結局下書きのままになっている。
今回も下書きのまま眠らせてしまって何も変わらないというのは避けたいので、とりあえず勢いに任せて書いて公開してみることにする。
まず、なぜ自分がこうなったのか、ということについて思いを馳せる。 時系列にすると、以下のような流れだと思う。かなり古い記憶を頼りに書いているので、事実とは異なる場合もあるかもしれない。
- 14歳くらいまでは今回のような課題はあまり無かった
- 15歳くらいに高専に入ってから、高専とは別にそれまであまり遊んでいなかった中学時代の友達とも遊ぶようになった(今もその関係はゆるやかに続いている)。その地元コミュニティが否定的コミュニケーションを取るコミュニティだった。当初は当惑したことを覚えているけど、半年もすれば慣れて自分もそういうコミュニケーションスタイルを喜んで取るようになってしまった
- 高専でも、そういうキャラで通ってしまった(いちおう友達がいなかったわけではなくて、今でもたまに高専コミュニティと飲み会をしたりはする)
- 18歳くらいのときにオンラインで年上の友達と仲良くなる。その友達が自分の人生に与えた影響は良くも悪くも小さくないけど、その友達も当時は否定的コミュニケーションを取るタイプだった(最近は連絡が取れていないので良く知らないが、伝え聞く感じではそれなりにうまくやっていそうではある)
- その友達の紹介もあって23歳ごろに以前の勤め先に入る。とにかく人が多かったのでそこにいた人々を一緒くたにはできないけど、結局自分のキャラが変わることはなかった
- 26歳くらいに今の勤め先に入る。比較的普通の感性を持った人が多い職場なので、当初はあまり気にしてなかったけどだんだんと否定的コミュニケーションが異常であることに気づき課題を感じるようになった
要するに、10代中盤で身に付けた悪いコミュニケーションスタイルを今でも引きずってしまっている、ということ。
ここで、普通は否定的コミュニケーションってなんだよって感じると思う。 これをうまく説明できる気があまりしないんだけど、大雑把にはゲーミングお嬢様の第2話の19ページめを読んでもらうと良い気がするので紹介する。
「煽るなら煽られる」
「ブーメランになる煽りをする」
「気心の知れた仲でのみ煽る」
僕の否定的コミュニケーションは当然こんなにきれいなものではないんだけど、方向性としては近いのではないか。
ここで重要なのは、否定的コミュニケーションをお互いにすることで自分たちの関係を確認し続けるという構造だと思う。これは「俺たちはお互いのことをディスってもそれを受け入れられる度量のある関係性だよな?」という確認の儀式だと解釈している。
では、なぜ否定的コミュニケーションがダメなのか。否定的コミュニケーションはそもそも直感的にダメでしょ、というところは一旦置いておくにしても、以下の2点に集約されるのではないか。
- 一般的には少数派のプロトコルである
- プロトコルの違う相手や関係性を読み誤った相手に対して間違って使用すると、当然トラブルに発展する
つまりコミュニケーションとしてとても危ういので、基本的に避けるべき性質のものであるということが分かる。
じゃあそこまで理解できていて、なぜ脱却できないのか? 別に、共感的コミュニケーションをする能力が弱いにせよ欠如しているわけではない(と自分では思っている)ので、「ここは否定的コミュニケーションで行こう」と無意識にアクセルを踏んでいることが問題であるはず。 ここはありがちだけど正常性バイアスや現状維持バイアスといったものに縛られて、認知の歪みを正し切れていないから、ということだと思っている。
このあたりの原因は掘り下げ切れてないので今でも脱却できてないわけだけど、その中で思い当たる特に危険なものとして、親しい=ありのまま=否定的コミュニケーションを取っても良い、という発想の偏りがあると感じる。 ありのまま=否定的コミュニケーションというのは上述した経緯からいって自分にとっては残念ながらそのとおりなんだけど、親しい=ありのままという発想が間違っていそう。 おそらくは、親しい=広く深く利害関係が一致しているという発想の方が比較的正しくて、利害関係に還元できれば否定的コミュニケーションが取るべき選択肢ではないことは明らかだと思う(ありのままが許されるのは一般的には親しい関係ではなく愛されている関係だと思われるので、別に親しかったとしても愛されているわけではないと言い換えても良いのかもしれない。寂しい気もするけど、親しき仲にも礼儀ありというように一般的にはそういうもの)。
あとは
コミュ障には「沈黙が耐えられない」タイプもいて、1見すると陽気でフレンドリーで多弁な生物だけど、無理してテンション上げてるので何処かギクシャクしてるし、勢いで余計な事まで喋ってしまうしで結局は微妙な感じになりやすく、本人も自覚があるから家に帰ればメッチャ恥ずかしくなってるというな
— rei@生きてるだけで疲労困憊発売延期 (@rei10830349) 2020年8月2日
という要素も自分はありそうだな、と感じる。そして自分にとっては不慣れな共感的コミュニケーションよりも手慣れた否定的コミュニケーションのほうが楽なので、勢いで否定的コミュニケーションのアクセルを踏んでしまう、というようなイメージ。 ここは、親しければ沈黙くらいは許されると思うし、親しくなくても相手の話を黙って聞いていたほうがマシだと思うので、そのようにすると良さそう。
今後自分が取るべき行動をまとめるとおそらく、
- 親しい=ありのままという発想をやめる
- 沈黙を耐える
- 共感的コミュニケーションに習熟する
- 疲れているとこのあたりの意識がおろそかになるので、疲れを避ける
ということになるのかな。この考察に自信はないけど変わりたいならとりあえずやっていくしかなさそう。
共感的コミュニケーションの習熟に関しては「アサーション」という単語があるようなので、そのうち本を読んでも良いのかも知れないと思っている(けど先述のとおりすでにこの手の本を読んでイマイチだったので、あんまりモチベーションが上がっていない)。
アサーション入門――自分も相手も大切にする自己表現法 (講談社現代新書)
- 作者:平木典子
- 発売日: 2016/10/21
- メディア: Kindle版
ここまでとりあえず勢いで書いてみたけど、恥ずかしすぎるし後悔する気しかしていない。 でもやっぱり現状維持が自分にとって一番大きな損失につながる気もしているので、ここは諦めて公開しておく。 公開したからには、みなさまからのご指導ご鞭撻を賜りたいとともに有益情報もお待ちしております。