日本語の本を読んだりしたものも、相変わらずいまいち意見が伝わらない。 意見→論拠の話し方では足りていないと感じる。
何故だろう?と考えたけど、それは意見の立場が共有できていないことが原因ではないか、と思い至った。
意見>論拠 が意見の構造だとしたら、論拠に共感してもらい意見に納得してもらうのが目論みだ。 そして論拠に説得力がない場合、論拠もまたそれ自身が意見であるのだろう。 であれば意見の構造は 意見>論拠(意見>論拠) という階層構造になるのであって、論拠単体で説得力を持つまで分解しなければ共感してもらえない。 きっと、この共感可能な論拠が立場と呼ばれるものなのだろう。
立場をどこのタイミングで共有するかも難しいように思う。 単に意見をブレイクダウンしていくのが美しいようにも感じるが、多くの場合は意見→立場→論拠という順序が安牌なのではないか。 なぜなら、それぞれ議論の終点→始点→過程に相当するからで、順序が構造的になるからだ。 始点の無い過程はあり得ない。
と冷静に考えると、そういえばこんなことも日本語の本に書いてあったなあ、と思うのだった。 書いてみるとすごく基礎的な話なんだけど、それすらも実践できていないというのが現実である。
それにしても自分がこんなサラリーマンくさい話題について考えるようになるとは思っていなかった。